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聖ボニファチオ大司教殉教者   St. Bonifatius Archiep. M.         記念日 6月 5日



 8世紀から9世紀にかけて、イギリスには熱心な信者が多く、殊に司祭修道士達の間からは、己が信仰に精進するばかりでなく、遙々外国までも押し渡って布教に活躍する者が輩出したが、異教国ドイツに乗り込んだ人も少なくなかった中に、本日祝う聖ボニファチオの如きは最も世に知られている一人であろう。

 彼は680年ウエセックスに生まれ、若くしてベネディクト会に入った。この修道会は父母が教育の為早くから彼を託した所で、宗教の方面はもちろんのこと、普通の学問にかけても良き教師が沢山にあった。
 叙階されて司祭になると、当時はウインフリッドと呼ばれていたボニファチオは、宣教の為ドイツにされん事を願ったが長上は彼を手放す事を好まなかった。というのは、彼が学徳に秀でたたぐいまれな有能の士であったからである。しかし天主の為に人々の霊魂を救いたいという彼の望みが、到底抑圧できぬまでに熾烈な事を見て取った修院長は、そこに主の聖旨を認めて、遂に祝福を与えて行かせることとした。ようようにして望み叶ったウインフリッドの、その喜びはどれほどであったろう。


 彼はまず北ドイツなるフリーゼンの地に赴いた。ここは前にアマンド、ウイルフリッド、ウイリブロルド等諸聖人が信仰を伝えた所であるが後国王に対する暴動などが起こり、彼等宣教先駆者の努力は一切水泡に帰し、またまた昔の様に還って、住民はほとんど異教徒ばかりである上に、彼等のキリスト教を忌み嫌う心は旧に倍して強くなったらしく、教えを説くことなどは到底出来なかった。で、さすがのウインフリッドも詮方なくひとまず英国に引き上げねばならなかった。
 もとの修院では誰も彼も大喜びで彼を迎えてくれた。のみならず、彼等は彼を修院長に選挙しようとさえした。ウインフリッドは百方手を尽くしてようようにそれを逃れた。それは出来るだけ早くまたドイツへ行こうとの望みを胸に抱いていたからである。
 旅行の準備がととのうと、今度は教皇から掩祝と派遣の命令を受ける為に、まずローマに赴いた。教皇グレゴリオ2世は喜んで彼を迎え、その熱心に動かされて、新たにボニファチオ「諸善をなす者」という名を与えられた。この思いもかけぬ教皇の好意に感激した彼は、ますます布教に活動する素志を堅める一方、教皇に対する愛と心服の念を更に深くせぬ訳にはいかなかった。そしてこの教皇への忠誠の心こそ、彼が布教に大成功を収めた所以であったのである。
 ボニファチオは教皇の掩祝を受けて、再びフリーゼンに行き、そこまで3年というものウトレヒトの司教で、当時は既に老境にあった聖ウイリブロルドをたすけて働いたが、その後中部ドイツのヘッセンやツルンギア地方に乗り込んだ。そのあたりは信者も多からず、また信者と名乗る者も異教徒のように生活していたから、ボニファチオは諸々を巡り歩き、主の福音をのべ伝えて少しも倦む所がなかった。かくて彼は異教徒達ばかりでなく、かつて信者であった人々をも改心させ、布教の成績は大いにあがった。
 やがてボニファチオは教皇に召されて再びローマに行き、教勢を逐一報告した所、教皇は甚だお喜びで御手ずから彼を祝聖し全ドイツの司教とされた。時あたかも722年のことであった。
 それは彼はドイツへ帰って従前通り仕事を続け、英国から更に宣教師達を招いて彼等に司祭を養成させ、また新たに司教区を2,3増設してこれを託すべき司教を、教皇の許可を得て定めた。しかしなお多くの異教徒等は依然キリスト教の教化に浴するをいさぎよしとしなかった。彼等は樫の木を神木とし、その下で祭りを行って神を拝むのである。で、ボニファチオは樫の木を倒す決心をし、自らも手を下してそれを敢行した。異教徒等は神罰たちどころに下ってボニファチオが悶死するであろうと思ったのに、案に相違して何事も起こらない。かれはその樫材で小聖堂を建てた。それからというもの、さすがの土着民も迷信の夢から覚めて、我も我もと洗礼を受けるようになった。かくて改宗した人民の信仰を固め、かつ彼等の教育にあたらしめる為にボニファチオは所々方々にベネディクト会の修院を設けた。その中最も有名なのはフルダにあるそれである。彼は時々そこに退いて、更に事業を行う力を得る為に、祈りと黙想にふけった。
 彼は婦人の教育にも意を注ぎ、女子修道院を設立し、英国から修道女達を呼び寄せた。その院長聖リオバ童貞はボニファチオの親戚であった。


 732年教皇はボニファチオを大司教に叙階し、ドイツを数個の司教区に分かつように命じた。彼はその任務を果たす前にまず教皇の掩祝と意見を求める為に、ローマへ3度目の旅行をした。そして帰来司教区設定に努力し、幾多の障害に打ち勝ってその実現に成功した。
 彼は自分で一切の監督をした。大司教館はマインツに置いたが、老齢にもかかわらずそこへ行って休養するような事はほとんどなかった。彼はすべての始末をつけ以前わが弟子であったルロを後継者と定め、自分はもう一度フリーゼンの改宗を思い立ち、数人の同志と共にそこへ赴いた。この度の布教は大成功であった。が、それだけにまた教敵の激昂も甚だしかった。ボニファチオは彼等を説伏すべく行ったけれど、その時頭に一太刀受けバッタリ倒れた。それから他の人々も襲撃され50人以上も殉教者を出した。ボニファチオの遺骸はかねての希望によりフルダに運ばれ、そこに葬られた。彼は今日に至るまでも聖なる殉教者、且つドイツの保護者と仰がれている。

教訓

 聖ボニファチオの救霊に対する熱心は実に驚くべきものがある。彼は異邦人の霊魂を救うために自分の生命をなげうった。我等も少なくとも自分の救霊だけは、生命を捨てても計らねばばらぬ。